愛する人が死んだとき,人はどうするべきか

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「愛する人が死んだとき、人はどうするべきか」ブッダが説いた5つの方法

という福厳寺住職の大愚元勝さんの記事が掲載されていて,とても参考になったので備忘録として記しておきます。

死という事実を見据えることが供養となる

この記事に目がとまったあなたは、ひょっとしたら、愛する人を亡くしたことがある人かもしれません。そして、その人の死をまだ受け入れることができない状況にある人かもしれません。 だとするならば、少し覚悟をもってこの記事を読み進めてください。  

なぜなら、愛する人の死を受け入れるには、痛みが伴うからです。  

けれども、その痛みを乗り越えて、愛する人の「死」を受け入れることができたとき、あなたの「生」が変わります。  

愛する人を失った悲しみを癒やし、「死」という真実を真正面から見据えたとき、あなたの「生」に変容が起こるのです。  

そしてその、あなたに起こる変容こそが、今は亡き、愛する人にとっての、供養となるのです。

PRESIDENT Online

生まれてから,唯一確実なのは「死」を迎えるということ。何一つ平等でない人生があっても、死だけは平等です。

仏教の根本には、いつも「諸行無常」の真理があります。

諸行無常とは、「あらゆる事象が、死滅に向かって変化し続けている」という意味です。

諸行無常であるがゆえに、命は生まれた瞬間から死につつあります。

アメリカの精神科医、エリザベス・キューブラー=ロスは『死ぬ瞬間』という本を著し、死に瀕した人々が、次のような5つの段階を経て、自らの死を受容していくことを論じたそうです。

第1段階:(否認)死を否定し、周囲の人と距離を置くようになる

第2段階:(怒り)死が否定できないと自覚し、「どうして自分が」と怒りを覚える

第3段階:(取り引き)死から逃れるため、何かにすがって取引しようとする心理

第4段階:(抑うつ)死から逃れることはできないと悟り、抑うつ状態になる

第5段階:(受容)死を受け入れ、心に安らぎが訪れる

「わたし」とは記憶の塊です。生まれてから今までの、心身に刻まれた様々な記憶。それが「わたし」。だから永年寄り添った人の死は、「わたし」の一部が死ぬことを意味します。

それが突然やってきたとき、私たちの心は、ロスが示したように、激しく揺さぶられるんですね。

そう知っておくことは、愛する人の死を受け入れる上で、大いに役立つことでしょう。

一見面倒にすら思える、形を変えての儀式の繰り返しが、遺族にとっては、少しずつ「愛する人の死を受け入れる」練習となっている。

それは、四十九日のことを「大練忌だいれんき」と呼ぶことからも分かります。大練忌とは、「もう、あなたは故人のいなくなった日々を、大いに練習しました」という意味です。「もうあなたは悲しみをたくさん練習したのだから、そろそろ前を向いて、自分の人生を生きてください」という、遺族の現実生活復帰に向けて背中を押す儀式が、四十九日、大練忌なのです。

葬儀・法事などの一連の葬送儀礼は、死者のためではありません。愛する人の死を受け入れられずに苦しみ続ける、遺族のため。

儀式には力があります。そこで真摯に、手を合わせるものの心を浄化し、悲しみを癒やす力があります。決して派手でなくていい。自分で行う写経、念仏、読経でもいい。

ちゃんと供養することで、悲しみが癒やされてゆくのです。

愛する人を失ったときは,積極的に自然と触れ合うといいそうです。

今は亡き愛する人の命は今頃、この青い空や、大いなる川や、爽やかな風や、緑豊かな木々のように、大自然を循環しているんだそうです。

死を否定せず、受け入れて生きる

あなたが愛する人の死を否定し続けるかぎり、あなたも故人も救われません。

あなたは死を恨み続け、故人は死んだことを、あなたに責め続けられているからです。

ブッダのメッセージは

「死は恐れるべきことではない。いつかは必ず誰にも訪れることであり、自然なことである。恐れるべきことは、死ではない。まだ明日があると思っていい加減に生きること。過去にとらわれ、未来を憂いて、今をちゃんと生きないこと。なすべきことを成さず、怠惰に生きること。愚痴多く、他を恨んだり、批判したりして、自分を顧みないこと」

このブッダのメッセージを真に理解したならば、「生」が変わるんだそうです。

あなたがあなたのために、そして故人のためになすべきことは、ちゃんと生きること。

遺族が健康に、明るく、仲良く、強かに生きること。それこそが故人にとって、最高の供養なのですから。

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